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定義を馬鹿にするな:わかりやすさの罠(上)

「わかりやすく伝える」秘訣伝授という触れ込みのYoutube番組で、元TVアナウンサーが「大学の先生とかは長いんですよ。まず定義から始まったりして」というのを聞いて驚いた。まどろっこしいのや偉そうなのはNGだが、それと定義とは別の話だ。

かと思うと、先日の奈良教育大学附属小学校のいじめ問題に対して、学長は「定義が違った」と述べている。

定義というと堅苦しいが、要は前提であり、さらに言えば無意識の「思い込み」の事である。定義がはっきりしない話は「わかったつもり」にはなるかもしれないが、決して本質の理解にはつながらない。夫婦喧嘩も社内の対立もそのへんが起点になることが多い。関係が近いほど、「わかっているはずだ」と思ってしまうからである。

多くのミッションやパーパスがほんとうの意味で実感、共有されることがないのはそういうことだと思われる。「”世界の人々に愛されるグローバル・ブランド”“自信と誇りを持った企業グループ”を目指します」とはダイハツのグループ理念だ。

「わかりやすいこと」は素晴らしい。しかし本当に大切なのは(まどろっこしいことを)「わかりやすく」伝えることである。それを取り違える人が多いのは心配だ。「今のお気持ちを」「嬉しいです」というインタビューはわかりやすいがそれだけである。駆け出しコンサルタント時代に言われた「考えるとは、適切な言葉を選ぶこと」を思い出す。先生と言われる人たちは特に気を付けないと。