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「お詫び」アナウンスメントが示すこと:志の輔落語で考えた(後)

ちょうど前日に山手線が止まったこともマクラになっていた。そこで笑いを呼んだのが「山手線って、3分おきに来るんですよ。なのに『遅れて申し訳ありません』と謝っている。こんなこと言ってるのは世界で日本だけじゃないか?」というお話。全くその通りだと思う一方、そこで大きな笑いが起きるのかは根っこがとても深い気がする。

何年も前にこのコラムで、何かと謝る幼稚園のように注意やアナウンスが繰り返されることに問題提起した。残念ながら全く変わっていない。おそらく、無意識のうちに私たちにしみこんでいる文化の一側面であり、結果として「日本はオーガナイズドされている」ことにもつながっているのだろう。

ただ、だから変えなくてもいい、とはならない。「手持ちの札で、今後どれが使えないのか、どれが使えるのかを見極めること」が改革だといったのは塩野七生氏だが、みんな「何が使えないか」は気づいているのである。なのに、捨てない。多くの企業でも問題は昔から指摘されていたのに、変わらないという話は非常に多い(プルデンシャルもその1つだろう)。

ルールを変える壁もあるだろうし、「もしも」というのもあるだろう。しかし、みんながいらないと思っていることに時間やエネルギーを使っていたら、本当に必要なことに使えない。先日亡くなった伊藤忠の丹羽宇一郎氏を含め、改革者が行ったのは「当然行うべきこと」をやったからである。AIとかイノベーションとか言う前に、「やめること」一杯あるなと大混雑の渋谷駅から帰ったのでした。