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「ダイバーシティ」と言うのをやめたらどうだろう?:A trap of emphasizing “diversity”

令和の今時「亭主関白」は死語(というかテレビでもコンプラ上NGらしい)。一方ニュースや新聞で見ない日がないのは「ダイバーシティ」。

定義云々の話をするつもりはない。ただ、「ダイバーシティ」という便利な言葉のおかげで自分たちが本当に何をすべきかがぼやけていないかと思っただけである(これは「戦略」「イノベーション」とか「パーパス」とかでも見られるとは今週号のEconomist誌の記事)。「ダイバーシティ」と抽象的に言っているうちに、あれもこれもとすべてが中途半端、あるいは表面的になっていないだろうか?

暴論かもしれないが「ダイバーシティ」という言葉をやめて、男女差別をなくすとはっきり言うべきではないのかと思う。

よく妊娠などが「ハンディキャップ」として取り上げられるが、それは昭和どころか狩猟時代のルールで、単純に体力が重視される世界を前提にしているのではないだろうか。イノベーションとか、国力とかも、実は男女差別がなくなれば今と全然違った話になるのではないか。

いやいや、「ダイバーシティ」はもはや戦略です、性差だけではないんですという人たちに言いたい。その通りです。そして「あれもこれもしたいけど、一番大事なことをするために、泣く泣くあきらめて集中すること」こそが戦略であると。