ケースや論文で「一般化」という言葉がある。具体的な事例から、より普遍的な教訓やセオリーを引き出すことで、ほかの企業や場面でも使おうという意図である。
ただ、ともすると「ただのあたりまえ」になる。リーダーは重要だとか、顧客のニーズをよく考えろとか。実際、日本に帰ってきて不思議に思ったのは、なぜ日本のビジネス記事は(多くの場合あたりまえの)「答え」を書くのだろうということだった。
一般化された答えの浸透度が低いのは、自ら気づいたことだけが血になり、肉になり、行動につながるからである。事実を淡々と深掘りしたほうが想像力が刺激され、「感じる」。本当の意味での腹落ちするとはそういうことではないかと思う。
是枝監督の『歩いても 歩いても』に対してフランスのエージェント社長は「トゥーローカル」と言ったそうである。ヨーロッパ人には理解できないと。ところがスペインでもブラジルでも「なんで俺の母親のことを知っているんだ?」という声が続出したという。
ケーススタディなどで「学ぶ」とは、予定調和的なまとめを記憶することではなく、1つ1つの事実を読み解き深掘る過程で自ら主人公に成り代わって「感じる」ことである。だから具体的事実の細部にこそ神は宿る。それを捨象した「答え」は間違っていないだけにたちが悪い。