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推理小説と大企業病(!?)

 

慶應ビジネススクール M47期の長野です。

推理小説が好きでよく読みます。

推理小説といえば叙述トリック、つまり、文章の表現方法や語り口を工夫することによって読者のバイアスや思い込みを逆手に取りミスリーディングさせる手法がよく使われます。

叙述トリックによって推理小説は「作者と読者のフェアな知的ゲーム」となり、完成された叙述トリックを持つ推理小説はロジックの一貫性と清々しさ、納得感を含み、とても美しいものです。お勧めは法月綸太郎氏(画像は法月綸太郎『キングを探せ』)、最近だと夕木春央氏の『方舟』も秀逸でした。

昔から「解決パート(探偵役による種明かし)の前にほとんど犯人とトリックがわかる」というのが自慢でした。

といっても、”ざっくりと”2-3パターンくらいのあり得るストーリーを考えておいて、解決パートでそのうちの1つが見事当たる、という感じです。

しかし最近になって、推理小説1冊を読むのにやたらと時間がかかるようになっていることに気づきました。なぜ時間がかかるのか考えてみると、あり得るストーリーが1つに固まるまでは解決パートに進めない(進みたくない)自分がいるのです。

そんな自分の最近の読み方を振り返って、慶應ビジネススクールへ進学する前、所謂JTC大企業で働いていた頃もまさにこんなことをやっていたなぁとふと思いました。

「このポイントに突っ込んでくる人がいるかもしれないから確認しておこう」「確実に起こり得るシナリオだけを提案すべきだ」「あっちの部署はなんて言っているか事前に確認しておけ」「この点とこの点は矛盾しているから説明には使えない」云々、細かい補足資料や想定問答の作成だけで時には数日をかけていました。
これらの作業に終わりがくるのは、「全ての確認が済んだから」ではなく「タイムアップになったから」で、殆どの場合、丁寧に準備・確認した枝葉の情報は使えないものばかりでした。

もちろん、細かい部分まで精緻に確認を行うことの重要性を否定するつもりはありません。「神は細部に宿る」も正にその通りだと思います。
しかし、それによって仕事をした気になっている上司(そして当然自分にも)にほとほと嫌気が差していました。

そんなクセが今や推理小説を読む時にも反映され、昔のように”ざっくりと”読み進めることができなくなっているのではと思い至りました。

推理を仮説と読み替えても同様ですが、
あり得るストーリーは少なくとも2-3パターン存在するのが当然で(もっと多いかもしれません)、ましてや全ての事柄が1つの綺麗なストーリーで説明できることなど稀でしょう。
そこに拘って多大な時間を費やすより、一章先に読み進んで推理の答え合わせとブラッシュアップをするほうが余程有意義なことも多いだろうと考えるようになりました。

最近では、解決パートで突如、後付けの(そしてクリティカルな!)設定が追加されてちゃぶ台返しをされる小説も増えている気がします。
往々にしてこのような本の帯には「あなたは何度も騙される!大どんでん返しに驚愕!」などと書いてあります。
大どんでん返しというよりフェアじゃないだけだろうという気もしますが、これも読み進めてみないとわからないことの1つです。