前回は「平等」の話だったけど、今回は「エリート」の話。「友を呼ぶ米エリート層」という記事によれば(8/25)アメリカの25~44歳の上位10%の富裕層のフェースブック上の友人の84%が上位50%層、逆もしかりだといい、分断を問題視する。
エリートって、金持ちのこと?と思って検索してみると「 the people who have the most wealth and status in a society」(Britannica)だそう。
個人的にはエリート=リーダー、高い社会的地位の保持には責任が伴うことをさすノブレスオブリージュが想起される。だから文科省がギフティッドの子供を支援という記事(8/27)を読んだ時に、おっと思った。ただ、「文科省は今回の支援策を英才教育とは位置づけておらず「過度な競争をまねく恐れ」があるとし、IQ(知能指数)などの基準に基づく才能の定義づけも行わない」のだそう。
アメリカ育ちの息子たちは、夏の間だけ日本の小学校に入っていたとき、身長順に並ぶのをとても不思議がっていた。成績ではしないのに。逆にアメリカではGT(gifted & talented)というクラスは当然ある。人は違うからだ。
「過度な競争」は人を一律に扱うから起こる。エリートという言葉が嫌ならリーダーでいいと思うけれど、そうした能力と意欲のある子どもたちを型にはめて潰さないようにしないといけないのではと改めて思った(結局前回と同じ?)。それは親から刷り込まれる妙な特権意識とも違う。日本の富裕層はたった数%でも下位10%の友達がいるだろうか。