誰が考えたか知らないが「教育」とは素晴らしい言葉ではないか?ただ、「教」と「育」が全く違うということはあまり意識されてないと、西堀栄三郎氏と河合隼雄氏は口を揃えて言っている。
前者は動物を躾けるように「教え」込む。後者は植物のように環境を整えて「育つ」のを待つ。この2つが相まって「教育」のはずだが、いつの間にか前者ばかりをすることだと、する側もされる側(その親も含め)も思い込んでいる。
人間の場合は親子にせよ師弟にせよ1組1組がユニークであることが多い。名伯楽とは、部下や弟子の才能を見抜いて、それを伸ばすための「教」と「育」の絶妙なバランスを見つけられる人のことだろう。残念ながら、そうした才能に恵まれていない自分は、手を抜かずにぶつかっていくことしかできない。結果として空回りしたり、潰したりしていることもあるのではないかと思うが、小賢しく手加減をしたら自分の与えられるものは何もないだろうと思うからである。研究室から自宅に避難している写真のベンジャミンは、怖くてバッサリ切ることをしなかったせいでひょろひょろである。
「教育とは教えられたことを全て忘れてしまった後の残るもののことを言う」という諺がイギリスにあるそうだ。何年か(あるいはもっと)経って、社会で活躍する何人かにそう思ってもらえるだろうか。