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「情報の透明性」って、なんだ?

このところのコロナ騒ぎ、3・11の振り返りの番組で「情報の透明性」という言葉を何度か聞きました。これ日本語としておかしくない?

多分、(都合の悪い)情報をつまびらかにして公明正大に意思決定しましょう、なんだろうけど、それならネットフリックスのように「意思決定過程の透明性」というべき。情報を隠そうとする個人であったり、公開を可能としない組織の仕組み、あるいは「これ、まずくない」と個人が思っていても口に出すことを良しとしない組織文化が問題であって、それを情報の問題にすり替えているということに気づかないのかしら?

世界的に有名だけどマスコミにめったに取り上げられないエデルマンという会社があります。2020年のレポートによれば、日本では「企業に対する信頼度49%(調査国平均58%)、政府43%(同49%)、メディア37%(同49%)」。この数値はさらに落ちるでしょう。「情報は多ければ多いほどいい」のではない、「定義のはっきりしない数字は一見客観的であるからこそ危険」と改めて多くの人が感じたからです。

それでもマスコミに煽られてしまうのは、何かと政府の対応・規制を求め、逆に「法律がないなら何をしてもいい」的な言動をする心理と根底で相通じるところがないでしょうか?飛躍を承知でいえば、成果主義「ブーム」も同じです。要は、自分の良心や常識で考えて、選んだり決めることができない。常に人のせいにする。だから成長もない…「自主性」が声高に叫ばれた結果がこれです。そもそも文科省が言い出すところが(小幡流に言えば)「終わっている」のかも。

Control your destiny, or someone will. ウェルチ母の言うように、人として、親として、何を、誰を信じるか、そして自分はどう考えるのか、そんなことを再考させてくれるために妙な日本語が使われたわけではないんでしょうが。