「良いものを作れば売れるという価値観が通じなくなり、大赤字になった事業が次々と消えた」。日経新聞朝刊に連載された「令和を歩む」第1回(2019年5月3日)で経団連会長の中西弘明氏が平成を振り返っています。
おっしゃることはもっともで、耳タコです。ただ、ふと考えてみると、「そもそも『良いもの』って、どういう基準で言っているの?」「最近の不祥事・リコール問題を聞いていると、『良いもの』すら作れなくなっているんじゃないの?」などなど、疑問は山のように続きます。その辺りは次回においておくとして、今回は「多くの企業が売り手視点で物を作ったため、変化した顧客ニーズに合わず売れなかった」と理解して以下を進めます。
一言でいえば「マーケティングの欠如」です。この点はずいぶん前に『なぜ新しい戦略はいつも行き詰まるのか』で日米の自動車業界の利益率の差を比べて指摘しましたし、最近では『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方』で森岡毅氏が強調されています。なぜそんな当たり前のことがいまだにできないでいるのでしょうか?いろいろあるとは思いますが、3つ挙げます。
1つは、圧倒的な「観察」の不足です。典型的なのは、目立った意見、声の大きい顧客のニーズを「顧客ニーズ」と思い込んでしまうことです。これは、ベストセラー『ファクトフルネス』のメインメッセージです。「Generation Z (7歳~22歳の世代)は、買い物はすべてネットだと思われているが、実際はその前のミレニアム世代、Generation Xよりも店舗での買い物を楽しんでいる」(Businessweek、2019/4/29号)こともそうかもしれません。顧客を知っているつもりなので、知ろうという努力を怠る。「インスタ映え」と言った流行に流される。ふと気づくとレッドオーシャンの谷底へ真っ逆さま。
2つ目は、次回もう少し触れますが、売り手が「良い」と思っていることが顧客に伝わっていない、そもそも伝えようという努力の圧倒的な不足です。顧客に想像力を発揮させ心をざわつかせることができない、結果としての購買意欲を引き出すことができないのです。ちょっとCMか何かして、反応がないとさっさと「折れて」しまう。
そうした相互作用の中で、自社、自分に対する自信が失われ、言葉の遊びレベルの「アイデンティティ」「○○らしさ」でお茶を濁します。結局値段を下げるというわかりやすいコミュニケーションしかできない。大切な政策が伝えられず、なんだかんだ言ってバラマキを繰り返す政治と同じです。
思うに、こうした3つの悪の相乗効果の背景には、「昭和の価値観」へのよく言えば決別、悪く言えば軽蔑があった(というかある)のではないかと思います。「真面目にものなんか作ってたって駄目だ」「コツコツやって何が楽しいんだ」「世の中は要領だ」的な流れ、おそらくこれを良くも悪くも体現したのがホリエモンこと堀江貴文氏でしょう。
個人的にはホリエモンは嫌いではありません。彼の主張は行動と相まって1本筋が通っています。しかし、それは誰もかれもができるものではない。逆に、あんな奴に負けるかとばかり、現実を直視せずに「大改革」を図った結果が日本の製造業の凋落の大きな理由ではないでしょうか。
中西氏の指摘する通り、デジタル革新に直面する令和時代に「日本は変わらなくてはならない」。しかし、問題は何を変えるかではなく、何を変えないかです。平成の失敗とは、「変われなかったこと」では実はなく、「変わらなくてはいけない」とばかりに、(いわゆる「能力主義評価制度」に代表されるように)良いところ、変えてはいけないところまで変えてしまった結果、自分を失ってしまったことだと思うのです。